昭和四十四年二月一日 月次祭
ただ今二月の始の祈願際を終わります。
今晩の御話しをどうゆうお話をさせて頂こうかと神様にお伺い致しましたら大きな枝振りのよい松にたくさんの鶴が舞って来ておる、又はその松の周辺を舞い遊んでをるような情景を頂きました。
それで今日はそうゆうような事を皆に聞いて頂こうと思うのです。
松と言うことは合楽の信心と言うことであろうと思います。
私が新聞に松の字がついておるとそれを見ただけでも感動する、九州の信心は当時三松といわれた小倉の桂松平先生それから久留米の初代の石橋松次郎先生そして近くは甘木の初代安武松太郎先生当時九州の三松というて大変なお徳を受けられたくさんの人が助かり大変な御比例を受けられた先生方ばかりそれとものいわば神格であり同時に又手続きの上での先生でもおありになるわけでございます。
ですからそういう先生方の祈りというか又は思いとゆうものが九州の信者氏子の上にかけられてある、初代の桂先生などはこの名教を世界の各国に広めんとされたよしでございます。
いうなら世界の氏子にこの有り難いお道の信心をわかって頂きたいわかってもらいたい、これはやはり私ぐらいの信心でもそれを切実に思います。
昨日でしたか熊谷さん畑野さん野口さんと久富さんと私と五人で応接間でいろいろお話させて頂きながらお抹茶を頂きながらめいめいがそれを言われます。
まあ本当になんと有り難いところにご縁をおかげを頂いたものか本当におかげを頂いておるこの喜びをこの有り難さというものを一人でも多くの人に伝え又は聞いてもらってその人達に私どもが頂いておるようなお陰を頂いてもらいたいと思うのですけれどもお話をいたしましても又はそれを思いましてもなかなかそれを聞いて下さらないという程に難しいのでございます。
今朝も熊谷さん朝の御祈念にバスを利用して見えられます一番バスですから、だれも乗り手が以内、「毎朝毎朝感心なこってすね」と「本当にこの朝からご苦労様ですおしるしゅうなさいましょう」と運転手さんが話かけてこられます。
そこでその横へ掛けてから「いやもうしるしいなんではありませんもう十何年間こうやって椛目から合楽がよいをさせて頂いておりますがもうこの年にならせて頂いて朝は毎朝お水をいただいておる。
まあ二十年近く一日の如く毎日毎日合楽通いをさせて頂いておりますがもう有り難うして有り難うして今日はどういう御理解を頂くやろうかどういう御教を頂くだろうかと思うただけでも心が弾みます。
その御教を私の心の上に頂いてそれを一日の生活の指針とそせて頂きますとそれはもう本当に口にも言葉にもとても尽くせないほどのお陰を頂きますから折角そういうふうに話掛けて下さったから、そのことを一生懸命有り難いですねとまあ一生懸命、運転手さんも聞いて下さった。
そんなら私も一緒に連れて参ってくれとはなかなか言われない。
今日は御教会の前でお止めしてあげましょうと言われて教会の門の前で車を止めてくださった。
とにかく信心参りが毎朝毎朝出来ておれば如何にもその人がしるしいことがあるから、難儀なことがあるからお参りしているように一般では思っている。
いわゆる悲しい時に神頼みと言うような事が信心だと思うておる。
そうではない、信心の喜びに浸って日日信心のけいこをさせて頂いておる者はこの喜びをだれにも分かって欲しい、いや自分の肉身のだれ彼すらがなかなか分かろうとしなければそれを分からせる、押さえ付けて分からせると言う訳にはいかんと、例えば熊谷さんでもそれをゆうておられる。
御信者さんの昨日畑野さん野口さん久富さんでもそれを言うておられる。
私などは尚更それを思う。
本当にこの有り難い御信心を皆さんが頂いて下さるならこれが宣伝ぐらいで、新聞広告で皆が集まって下さるなら三味線、太鼓もいとはない新聞広告もほんとに惜しいとは思わないのですけれどもそんなことで助かるということでもなからなければそんなことで人が集まるということでもないという程に信心は難しい。
そこで御縁を頂いておる私℃も一人一人がそういう有り難いものにどうでもさして頂かなければならない為にです。
今日私は大きな老松野周囲をたくさんの千羽鶴とでも申しましょうか鶴が舞遊んでいる。
初代先代当たりが教祖生神金光大神の祈りを受けられてそして世の中の難儀な氏子が取り次ぎ助けられることの為に九州に道を開かれ九州にたくさんの人が助かっていったそういう願いを又次の信心を受け継ぐ者にかけておられないはづがない。
そういう祈りがかけられておられないはづがない。
先程末永さんがここでお話しをいたしておりましたように、そうゆう祈りがですそうゆう祈られておる私共にどうぞ助かってくれそして一人でも多くの信者氏子が助かって行く事を願い祈っておられるのである。
ですからここでも私とにかく自分の信心自分の取り次ぎくらいで助かるとは思われん、もち論元を正せば教祖の神様ですけれどもそういうお徳を受けられた先生方の御信心というものを神習わせてもらい又先生方の御霊様ながらのお働きをお取り次ぎの中から頂かせてもろうて、どうぞ九州のお道の上に一大御比例を頂かしてもらってたくさんの信者氏子が助かることを願わしてもらう。
そういう意味で私はこの松というのはそういう意味だとね。
鶴が舞い遊んでおるように松に向かって飛んで来り又その周辺を舞い遊んでおる姿をこれはそのままがその一人一人の私共の信心私共であるとこう思う野です。
松に向かってその鶴がこの情景を思うただけでも目出度いなと思うでしょうね。
松に鶴が舞い遊ぶように私が思うのはその目出度いおかげを頂きたいと思うのです。
いうなら神も喜び金光大神も喜び氏子もの喜びと仰せられるねほんとに神様も喜んで下さってのおかげを頂きたいと思うのです。
神様の働き神様のお陰ということは合楽の方たちはみんなわかっておられる、畑田さん熊谷さん久富さん野口さんだけではない、皆が神様の間違いなさそれを熊谷さんは昨日天衣無縫とこういうておられます。
天衣無縫という言葉があるがもう合楽ではまのあたりにその天衣無縫のおかげを見せて下さる。
いうならば一分一厘の間違いの無い働きをです見せて下さるそれを人に例えば話してもそれが本当かと疑われる位に間違いの無いおかげの働きというものを見せて下さる。
今日私、長年の久富さんの念願でしたけれどよい浪花節が来たから親先生を~~浪花節を聞きにいってもらう。
あれは見るものではなく聞くもの、ところが私は浪花節というのは若欄のです。
素人なのです久富さんは非常な玄人なのです。
ところがたまたまこの田主丸に名人会ですかね七八人の有名な浪花節ばかりが参りましてそれで早うからそのキップを入手しておられてからそれがお供えしてあった。
それをむつやの人達が聞いてあのキップはいくらかお金を出さなければいけない、だから特別招待券というのがあるからわざわざ茂雄さんがもって来て下さった然も丁度久富おっちゃまが明日は農休日でお休み出もあるし、ハ~今日は神ながらですわい、丁度時間前に一時からのに十二時半ごろ参りました。
もう立すいの余地も無い程にあの中学校の講堂に一杯三千人から入ってもうぎっしりなんです。
もちろんむつやから言って居りましたから私の席は丁度真ん中の良いところに取って下さった。
ホウもう大きな折り畳み式の大きなのがあるでしょう。
それがちょっと置いてあってもうほんとに気の毒なごとある。
そこへ場所を取ってあってそこへ参りましてから掛けさせて頂いてから一寸後ろを見たら後ろに山口さんが参って来ておるの出なく、聞きにきている、それこそ私山口さんが参って来ておるような感激を受けなさったようでした。
だから今晩も月例祭にもちゃんと参って来ておられ感激がつづいておる。
あれは浪花節の感激では無く、私と一緒に浪花節を聞いたということが感激だ、先生この三千人からのたくさんの中によりもよって先生が見える後ろに私が席を取っておったということがほんとに有り難いというね田主丸にたくさんの信者がおるわけでもないのに、それから私の前には椛目時代にずうっと参って来ておった方がお酒がはいってホラ~椛目の先生といわれてお神酒をさされるような方が前であり後ろがその山口さんである。
そういう中でまあ今日は聞かせて頂いたんですけれどもまあ一こ私にはなかなかその浪花節の良さがわからないのですけれどもまあやはり全館酔うような浪花節語りのような浪花節ばかりですから私共が丁度芝居を見るようにやっぱり興奮しておられました。
例えばそういうような一コマの中からでも神様の間違いなさというものを感じないわけにはまいりませんのです。
三千名からの中にここに合楽の先生が見えるけんここにおろうと言うのじゃ無くてです、もう先生ここに先生が見えたというて喜んで下さる私も今日は許されて浪花節を聞かせて頂きよるなあという思いで一杯でございましたというようにです、一事が万事に神様の間違いなさと言うことは皆さんが分かっておいでなのですからどうでも今日、私が御神前で頂きます目出度いおかげにならして頂けるおかげを頂か無ければいけない。
私の事を神様は、亀への表現で下さるのですね。
御心眼にはそれはございませんでしたけれども、そのいうならその松の根方に大きなたとへば亀がはっているといたしましょうか、そこへ沢山の鶴が舞い鶴と亀が舞い遊ぶ情景を思うただけでも目出度いなあと思います。
そういう目出度いなというようなおかげを頂きたいと私は念願しなければいけないと思うのです。
ただ無理を言うていわゆる悲しい時の神頼み的なおかげではなくてほんとに目出度い、たとへばほんならここに大きな松の木があってその松の木を目指して沢山の鶴がこうやって舞遊んでいる、飛んで来ている、それならほんとに目出度い楽しいそれこそ熊谷さんではないけれどもね、お参りをさせて頂くというということが。
今日はどういう御理解頂くじゃろうかとその楽しみを一ぱい喜びを一ぱいでお参りが出来る信心、それこそ銀行に金を借りに行くのでも同じ銀行に金を借りに行くのと預けに行くと言うたら大変な違いでしょうが、預けに行くということは心も浮き浮き楽しいもんです。
けども又銀行に金借りに行きよるということは違う、私がいうのは銀行に金を預けに行くような信心を一つ体得させてもらいたい分からせてもらいたいと思うのです。
それにはネ皆さん先づ神様がこの様にも間違いが無いと言うところを見たり聞いたりさせて頂いて折角お参りさせて頂くならば松の元に飛んで来るならば亀の元に飛んで来るならばそれこそ鶴亀の舞い遊ぶ様ないわば目出度いお陰を頂かせてもらうということが目指してなからねばいけません。
昨日もある方が「もう先生一月という月はもう大変な月でございました。
体の上にも様様次々とおきて来る問題の上にももうほんとに合楽の信心を頂いていなかったら、もうどこで爆発するか破裂するかわからぬ様一月であったけれどもお取り次ぎを日日頂いておかげを頂いて参りました。
三十一日昨日お参りされてからこの月はとりわけて神様のそうしたお働きを頂かせてもらい、おかげを頂かしてもらって、信心がもしなかったらどういうことになっておるだろうかと言うような一月であった、もういうなら正月早々からそうであった、それが今三十一日であるところの昨日振り辺って一月見せて頂いてますと思わせて頂きますとあれもおかげであったこれもおかげであったとこういう働きあの時に一つ間違っとったらどういうことになっておったであろうと言う様なお陰を頂いております一月のお礼を申し上げながらそういうお届けをなさるのです。
そのことを私お取り次ぎさせて頂きましたら、二人でですねこう荷物をかついでいるんですよね、あれなんというですかね、天坪というですかね、木刀ですかね、木刀で荷物をこうしてぶら下げてある。
前の方になり後ろになり後ろの方の人は自分の足に当たってじゃまになるくらいに自分の手元の方へその荷物をこう引き寄せている。
先の人はこの木刀をこうやっているそれでもたとへばそう言われるようにそれでも大変な一月であった。
それこそヘトヘトの一月であった。
もしこれに信心がなかったなら、この荷物を自分一人でもし持たなければならなかったら、到底立ち上がれも出来なかっただろう、持つことも出来ない程の問題をです。
金光大神御取り次ぎのお陰によって、金光大神が手元に思えば自分が祈っておって下さってあるね、それでもやっぱりきつかったけれども金光大神が祈ってござるところの重さと言うものはただではない、ただ事ではない。
私共が苦しいときにはです私共がこんなに苦しいけれども神様はその十倍も二十倍もいやより大きな苦しみを神様がなさっておられることを知らなければいけませんね。
そういうお陰を頂かせてもろうて日々おかげを頂いてきているね、だからそういう大きい荷物を例えば金光大神ガ荷のうておって下さるようなおかげをです、それを金光大神が喜びなさるはずがない。
天地の親神様が喜ばれるはづがないね。
今日ある方が朝の御祈念に家族中で参って来てからお届けをされるんです。
「先生一月という月は振りかへらせて頂きますとほんとにお陰を頂いた」嫁さんが言われます。
「この一月お陰を頂いて来た、元旦いや年頭に頂いた「より明るくよりにこやかに」とあの御教えがどのくらい私共のこの三十日間の間それが私共の支えになって来たことかそれがお陰にことなしにすんだお陰の元になってあったことを思います。
」教えに取り組む事が有り難いというほんとにたくさんのそのお取り次ぎガ昨日させてもらいました。
ところがその家族中参ってきてお取り次ぎをされるのに「先生私共にはその明るいというか又にこやかにというような、あの御教えは必要でない程のお陰を頂いて参りました。
」一家をあげて信心をさせて頂いておればしかもこれをたのまんならんあれが願いと言うのでなくてただお参りをさせて頂くということが有り難い楽しい、それは寒くもありゃ眠くもあるけれども寒いとか眠いとかいうものを超越したもの越えたもののそういう喜びが一ぱいで家族の者が信心させて頂いておりますがああ、こここそにこやかにならんならん、こここそより明るくならんならんと思わんですむ程にお陰を頂いた一月出ございました。
家族中で話合いましてから今日はどうでも最後の三十一日の日じゃからお礼に出らにゃあいすみませんばいと言うてからまあお礼に出て参りましたと夕べお届けがありました。
たとへばね願うお陰ねもう有り難いからもったいないからのお陰そこのと古老です、私本気で教えに取り組ませて頂いて言わば合楽通いが楽しい、それは松を目指して又その亀のおるここの広前に飛んで来る鶴のように楽しい雰囲気の中に信心のけいこが出来るような信心こそ私有り難いお陰であると思うのです。
そういう中から生まれて来るお陰をもって私は目出度いお陰だとこう思うのです。
お互い一つ一つ今日私が頂きますのは目出度いお陰を頂く、今日は女は世界の田地ぢゃからと言うあの御理解がございますのを女と言うのは私共信奉者一人一人のいやお陰を生みなしていけれるだけのものね、お陰を更に生み出していけれる私共、と言うふうに頂かねばならんのだと言うて頂いたのです。
それにはどうでもこの田地を肥やさなければならない。
女は世界の田地であるの自覚に立たなければいけない。
それをも少し小さくするならば日本の田地にならなければいけない、も少し小さくするならば教団の田地にならなければいけない、もっとこまく言うならばお教会の田地にならなければいけない。
その田地の肥えた信者が出来てこそその教会の御比例である。
もっと小さく言うならば自分の家の田地に私がならなければいけない。
だからその田地を肥やしておかなければ良いものが生まれんとおおせられる様にその田地を肥やすことの為の喜び、その教えを教えて頂くことの教えをです頂かせてもらうことの信心。
先程末永さんが祈り祈られることについての自分の悟りをここで話しておりましたが、私が書いて渡したものの中にはちょつと違った意味がございました。
それは祈れ親身を持って祈れ。
誰彼のことを祈れ。
必ず祈りが返ってくる。
祈り祈られると言うのはそういうことなんだ。
先日忽体島から小西という人が参って来ました。
月には何回か参って来る。
あるいわば願い事で参って来た。
自転車でところが椛目のちょつと手前の所で横へ千代鶴の大きなトラックが止まった。
「さあなんのこっちゃろか自分の前へ止まったと思うたら中から運転手さんが私が行くのを待ってから「今あなたがあそこに何か落とされましたよ。
」「いいえ私何も落としておりませんがる。
」「いいえ確かに落としなさった、行って見なさい。
」というから「そうですか」と言って引っくり返して行って見たところが自分の頭にネッカチ-フを被って来よった、それがそこへ落ちていた。
どうして親切な方やろか、自転車やなんかでなくてあのような大きなトラックを運転しながらしかも私一人がそのくらいなものを落としたのにわざわざ自動車を止めて落としなさった、とにかく行って見なさいと言うて親切に言って下さったその方の事ががです。
世の中にまあどうした親切な人があるものじゃろうと思わせて頂きましたら合楽に合楽にと心が向いてきよるじゃけに、ちぃと心が有り難くならなければならないのに、ちぃとも有り難うならなかった。
ところがその人の親切にふれたらです、まあ途端に心がうれしゅうなって来た。
ああこういう心でお参りしなければいけないなあと思うて参らせて頂きましたら、親先生が座っておられない時間に座って居られてまあおかげ頂いたと言うわけなんです。
ね、そして新に又ひっくりかへしてから御初穂を書いて何処の何と言う人かわかりませんけれども今日私に親切にして下さったその方のことがせめて今日一日でも無事に御用が出来られます様にと言うて願われるこれがわたしの言うのは祈り祈られると言うことなんです。
だからそういうね、信心がなくてもそういう親切な人があります。
それが信心を頂いている私共がですね、ほんとに心から祈らせて頂くならば必ずその祈りと言うものが返ってくる。
それが十人ではない二十人ではない、沢山の自分の周辺の人達の上に祈りが込められるとするならば、又それだけ人達の祈りが返ってくる。
その祈りの中に私がお陰を受ける。
値、「末永さんあんた今休んでいるけれど休みながらでも祈られるんだ。
あんたの周囲の人の誰彼のことを一生懸命祈りなさい。
」成る程末永さんは親先生が祈られてある、その祈りの中にある私であると言うことだけれどもそれではなくて今日私がその言いたかったのはそれだ、本気で自分の周囲の誰彼のことを祈らせてもらいなさい。
必ずその祈りが返ってくる。
それこそ向こうの運転手さんはですね自分に親切にしたおかげであの人がお取り次ぎを頂いてお願いしてくださることはそれこそ夢にも思っていないだらうけれどもその祈りがデス、必ず相手の方のおかげになって行くことを信じます。
祈らなければおられない、そういう信心がです私は今日は世界のこの世界の田地と仰せられるが自分の家の一番小さく言えば自分の家の田地にならうそれにはこれが肥えなければならない。
豊にほんとに 無条件に人のことが祈れることぐらい有り難いことはない。
そういう信心を身に付けていきたい ね。
そういうおかげを頂かせてもらうと言うこと ね。
「信心してみかげのあるを不思議とは言うまじきものぞ祈りてみかげの無いときはこれぞ不思議なることぞ。
」これ他所では知らんけれどもこ処ではそれを皆さんがみんな体験もしておられれば実際にこ処で習われておるということ言うならば天衣無縫のおかげを頂いて居る一分一厘間違いの無いおかげをこ処で受けて居られると言うその姿をまのあたり皆さんがごらんになってね、そしてけいこをして行こうと言う、どういうけいこかと言うと自分のいわゆる田地を肥やして行こうと言うのである。
その田地を肥やして行けれると言うことが有り難いと言う信心。
祈りてみかげの無い時はこれぞ不思議なること。
祈りてみかげの無い時はこれぞ不思議なることぞというようなみ教えをデス、本気でそれを信じて頂くならです、これは自分で祈りよるけれどお願いしよるけれどおかげにならんとするならばです、これはもう一段と信心を進めなければいけないなあ、押しが足りんのじゃあなからうか、改まりが足りないのではなからうか、又は御神意でそうであらうかと言うように色々にそこんところを検討してわからせて頂いておかげを頂いていかなければならない。
そして祈ることによっておかげが受けられる。
しかもそのおかげがですね。
ただ自分の我情であり我欲であるその願いが成就するね。
こういう難儀な問題こう言う腹のたつ問題こう言う情ない思いをしなければならない問題がお取り次ぎの働きによってです、ね、ここでああ言わんでよかった、こうせんですんでよかったと、それは右ぢゃなかばい左の方がよかばいと教えて頂いてその通りにさせて頂いたら、ああいう難しい中を今日もおかげを頂いて有り難たかったと言うそのおかげがね、いわば天秤に担ついでね言うなら金光様と二人で担がせて頂いておるそういうようなおかげ、そういう様に間違いのない頂けれるおかげ、ただそういうおかげをです。
教祖様にもそういう思いをさせんですむね、いうなら神様にも苦しい思いをさせんですむ様なおかげ、それには銀行通いでも借りに行くのと預けに行くのと違う様に同じ教会参拝デモね、自分の田地が肥えることが楽しみであると言う様な信心、為のお取り次ぎ、為の修行であると言うことになってくるとき神様も喜んで下さる金光大神も喜んで下さる私共も喜べれるおかげ、いわゆる目出度いおかげと言うことになってくる、そこまでですお互いに信心を高めて行こう。
一月という月は何とはなしにもうとにかく暴飲暴食の一月だった。
これは私のこと、もうとにかくもうほんとに月末ぎりぎりまでその飲んだり食べたりせんならんことの多いことね。
どうもそう意味あいで信心の芽があろうが二月という月はもう少しほんとに自分に胃腸と言うか心の胃腸と言うかね、いわゆる田地を肥やさせて頂く二月でありたい、いわゆる田地を肥やさせて頂く為の二月でありたい。
そういう信心をです、目指させて頂きます。
寒修行もだんだんおかげを頂いて後二日と三日後余すところ二日間、まだ寒修行に出て来てないお方はあと二日間でもよいから寒修行の真似事でもさせて頂いて早速おかげを頂いて頂きたい。
ね三日の朝の御祈念が明けでございますがその修行明けには去年もでございましたが、おそらく合楽名物の茶がゆを頂いて、幾人かの方たちの体験談でも聞かせてもらうて寒修行をそれこそ目出度く終わりたいと思うのでございます。
ですからそういう例えば寒修行のさなかと言うか後幾日かで終わる寒修行をです、ほんとに修行と言うものが有り難いもんだと言うもんだという、眠いたいけれども寒いけれどもけども有り難いもんだとわからせて頂くだけでも私は寒修行の値打ちがあると思うんです。
ね、も一つそういう信心を目指させて頂いて今日私が御神前で頂きましたことはこれは今日参拝の皆さんの 一人一人にかけて下さる神様の願いなのである。
それは松に鶴が飛んで来る様にその根方には亀がはうております。
その松の根方にはっておる亀の元に松の元に、それこそ鶴亀が舞い遊ぶ様な目出度いおかげを頂かせてもらうことを願いとしての信心。
そういう願いをです私は持たせて頂いてこの二月という月をおくりたい。
もちろんより明るくよりにこやかにと言うことはこれは、はずされません。
いつもそのことを思い続けこれをどんな場合でもそれを思い続ける。
昨日櫻井先生があの津島の方へお出でられる。
帰って見えられる。
あれはもうそれこそ玄界灘を通って行くわけですよね、もう朝鮮がお天気の日には見えるという津島なのです。
それにもう大変船に弱い、もういつも酔うのです。
それでも社用でどうでも自分が行かなければならんのでお取り次ぎを頂いてお願いをしてまあ一生懸命で乗らせて頂いた。
お陰を頂いてからにそこに別に人がこういたのでなく別ににこやかにせとかんでもよか、明るくしとかんでもよかばってんがそのことを心の中にずうっと念じ続けて津島につかせて頂きましたらおかげで酔うこともしませんでした。
ずいぶん下に揺れもしておりましたけれども、帰りにはそのことを忘れる程に感じませんでした。
もちろんその明るくと言うこととにこやかにと言うことは心にかけつづけました。
それがかけつづけられると言うところに、これももうそれをかけつづけたもんでなからなければわからないおかげがそこにはあるのです。
ね、そういう信心を一つこの二月は本気でさせて頂きたい。
いわゆる教えを頂く喜び教えを守らせて頂く有り難さ。
修行は辛いけれども有り難いと言う体験を頂かせてもらえる。
一日の何とは無しに目の荒らかった信心をです。
二月に一つ止めておきたいと言うふうに私は感じております。
どうぞそう言ういよいよ有り難い目出度いおかげの頂けれる信心を目指しておかげを頂こうではないですか。
どうぞ